itoichiのブログ

ノンフィクションとフィクションの間の話です。

9. 幸せの味が残らなすぎる

さて、もはやおなじみ、

私はまだダイヤモンドバイザヤードを手に入れられていない。

 

首元に輝く、一粒のダイヤモンド。

 

大人の女性の証(だと思い込んでいる)

一粒石のネックレス。

 

 

 

もはや、ティファニーじゃなくてもいい。

 

 

 

でも、せっかくなら、ティファニーが欲しい。

 

 

 

 

揺れ動く心を抱えてみる。

 

が、そんなことをしたって、ティファニーのダイヤモンドバイザヤードが手に入れられるわけではない。

 

 

 

「起きて、出かける準備をするよ」と、いつもよりしっかりヒゲを剃って、いつもよりきっちりした服を着た夫が、私を優しく起こした。

 

「張り切ってるね、どこに行くの?」と、まだ開ききらない瞼のまま、私は夫に尋ねた。

 

「内緒。とにかく準備して」夫は言う。

 

 

なんだかわからないけど、急いで準備した。

 

 

 

わけもわからず電車に乗った。

 

降りた駅は銀座だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目の前にはティファニー!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

みたいな展開があるはずもなく、

 

 

いつものように、お昼に起きる休日。

ぼさぼさの頭で、ヒゲが伸びてて、寝ぼけ眼の夫。

 

「お腹減ったね。何か食べに行こう。何食べたい?」

 

お決まりのセリフ。

 

 

見慣れた光景。

 

 

 

 

 

 

私のダイヤモンドバイザヤードは!?!?!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

突然だが、私は、とにかく失敗を恐れる人間だ。

 

 

 

 

 

失敗が怖くない人はあまりいないだろう。

しかし「失敗を恐れないこと」というのは、かっこいい気がして、とても惹かれてしまう。

 

 

 

 

だが、私は何事も失敗するだろうと考えている非常にネガティブな人間だ。

(1〜8まで、読んでくださっている方はもう言わなくてもわかってるって感じかもしれないが)

 

 

 

 

 

それは失敗したくない人間であることの裏返しだ。

如何せん、プライドが高すぎるため、失敗する自分を許せないのだ。

 

 

 

 

そのため、失敗しないよう、努力をしなければ、し続けていなければ、ダメな人間になってしまうと常に考えている。

下調べは怠らない。絶対に、だ。

 

 

 

 

 

 

 

特に、イベントなんかがあると、それはそれは、下調べを周到に行う。

 

 

入籍、結婚式、新婚旅行 etc...

 

 

それはそれは、これでもかというくらい調べる。

 

 

 

とにかく後で「あれ、やっておけばよかった」みたいな後悔をしたくない。

「失敗した」って思いたくない。

 

 

 

 

この世の中は、そういう人にとって、めちゃくちゃ調べ甲斐のある世界だ。

ネットに繋げば次から次へと情報が出てくる。

SNSなんか、最高の見本市だ。

 

 

みんな楽しそうだ。

なんと、どんな失敗をしたか、

どんな失敗をしそうか、まで教えてくれる。

 

転ばぬ先の杖、とても有り難い。

 

 

 

 

終わらない。

いつまで調べていても、調べ終わらない。

あの人はこう書いていて楽しそうだし、

この人はこう書いていて楽しそう。

あ、こういう失敗があるのね、気をつけなきゃ、気をつけなきゃ。

あれもやりたい、これもやりたい。

 

終わらない、終わらない。

不安はなかなか減らない。

 

 

 

 

当日を迎える頃には疲れ切ってしまっていた。

 

もはや、「楽しむ」ことしか、できない。

 

ここまでやったんだし、「楽しくない」わけがないじゃないか、と思い込む。

 

 

 

そのピークの一瞬の楽しさのために、ここまで時間をかけてきたんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、一瞬で、消えてしまった。

その時間を切り取った写真たちが、どうにか満足感を漂わせている。

 

 

 

 

 

 

 

さて、私の夫は下調べをしないタイプだ。

 

 

 

 

 

私から見れば、行き当たりばったりだ。

 

 

 

 

 

「それでも、楽しいよ」

夫は、また、笑った。

 

 

 

 

 

私が、「失敗しないで、楽しむ」ために、こんなに調べて、疲れ切っているのも知らないで…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はてさて、「楽しむ」とは何だろうか?

失敗の対極にあるものなのだろうか?

 

 

 

 

ここまでしないと楽しめないのだろうか?

 

 

 

 

 

 

その瞬間までの疲労感と引き換えに、

「楽しむこと」だけを選択肢にして、

それ以外を挟ませないことが、

果たして、楽しめているのだろうか。

 

 

 

夫は、私が「失敗」だと思った時さえも、楽しんでいるように見えた。

 

 

 

 

夫には、失敗がないのだ。

準備をしていないのだから、

そもそも何が成功かを知らないのだから、

失敗していないのだ。

 

 

その瞬間の楽しさを噛み締めているのだ。

もちろん、楽しくないときだって、噛み締めているのだ。

 

 

 

 

私は、知りすぎてしまったのだ。

だから、恐れてしまったのだ。

 

 

 

 

その時、その瞬間をどう感じるか、

「楽しい」しか残さないことで、

無視し続けてきたのだ。

 

 

 

 

きっと、そういうものではないのだ。

楽しいとか、幸せだとか、

は、準備して、得られるものだけではないのだ。

それは、ただそこにあって、

無理矢理感じるものではないのだろう。

 

 

幸せの味が残らなすぎる、

準備の時間の期待の大きさが、

その味を隠していたのだろう。